2009-02-03

浅間山噴火!!

みなさんこんにちは、沢ガニです。

2月に入って、浅間山が噴火しましたね。
気象庁によると、「2日未明に小規模な噴火を起こした浅間山について、今後も中規模の噴火が起きる可能性がある」、そして「直径50センチを超える噴石が火口から1.2キロの中腹まで飛んでいるのが確認された。また、火山灰は、東京・国立市や、約200キロ離れた千葉・鴨川市や伊豆大島でも確認された。」とのことです。

今回は、火山災害に関することでもあるので、浅間山の話をしたいと思います。

浅間山(あさまやま)は、群馬県と長野県の県境にある火山で、岩質は安山岩です。標高は2,568mで、円錐型をしております。世界的にみても落ち着きのない活火山で、有史以来多くの記録が残っております。

噴火の記録の中で、主なものを採り上げると、以下の3つが挙げられます。

・685年(天武天皇14年)
もっとも古い浅間山噴火の記録はこのときのもので、記述は日本書紀になされております。時代は飛鳥時代です。大化改新から40年後のことですね。

・1108年(嘉承3年)
次に残っている主な記録は、平安時代のものです。これは、ときの右大臣、藤原宗忠(ふじわらのむねただ)が著した「中右記」という本に記録されています。それによると、「上野国(こうずけのくに、ほぼ今の群馬県全域です)一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。」と書かれております。
時代としては、ちょうど白河上皇の時代です。白河上皇は「私の思い通りにならないのは、比叡山の僧兵と鴨川の水と、賽子だけだ」と言ったので有名な人ですね。実はこの台詞もこの書物に書かれているそうです(沢ガニは確認できませんでしたが)。鴨川の水が思い通りにならないということは、白河上皇でも災害には悩まされていたのだということで、沢ガニは興味深い話です。
また、この噴火のあと、復興のために開発された田畑を豪族が私領化し、後の荘園になったそうです。つまり、このときの噴火によって、上野国では、土地の荘園化が進んだわけです。荘園には武士が守りにつきますので、やがて武士の台頭が始まるわけです。いわば、この噴火によって、日本の中世のきっかけができたとも言えます(言い過ぎ?)。

・1783年(天明3年)
これは最も有名な大噴火です。このときには、溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と火砕流が発生、群馬県側に流下したと記録されています。この時代は江戸時代なので、相当な量の記録が残されています。ちなみにこのときに日本で政権を握っていたのは、あの有名な田沼意次です。
このときの噴火では、1,500人の死者を出し、鎌原村は15名を残し、ほぼ全滅したとされています。さらに、この噴火により、火山灰が成層圏に達し、数年の間、地球全体の気温が低下した結果、有名な「天明の大飢饉」が起きたと言われています。実は、同時期に地球の裏側のアイスランドでもラカギガル火山が噴火しております。天明の大飢饉は、浅間山だけでなく、このラカギガル火山の影響もあったと言われております。これらの噴火は、その後、世界中で不作が続き、やがてフランス革命の遠因の一つになったとも言われております。

今回の噴火は、これらに比べると非常に小規模ですが、それでも注視は続けていきたいですね。


浅間山の写真です。この写真は、浅間火山のページから引用させて頂きました。